13.境界線問題のつづき

境界線問題もまた、
Xにとっての「信じる」というテーマに
繫がっていた。

 

 

 

これは、同じく境界線問題に悩む、
ツインレイ女性や、それに準じる純粋な方に、
対処法を示唆する話になると思う。

 

 

 

どうしたらいいのかと悩むXに、
私は、伝えていく。

 

 


まず、私の両親の残念さは、
今後も変わらない。
Xのように、
愛を中心的基準にして生を受けたわけではないからだ。

 

 


少なくとも息子の私からはそう見えている。
長年かけて両親を観察した結果である。
他の誰にも異論を挟ませる余地はない。

 

 


ならば、何が私の両親の中心的基準かといえば、
「生活」である。

 

 


たしかにそれも1つの大切な基準ではある。
ただ、生活を中心にして、
愛を脇に置いてしまうのならば、
そこに起きる、
人としての優しさのレベル低下は、
免れようもない。

 

 


幸せという漢字が、私は嫌いだ。
書くときはひらがなか、
英語でハッピーにしている。

 

 


なぜならば、この漢字は、
この程度で済んでしあわせだね、という意味の、
手を鎖に繋がれた形から成り立っているからだ。

 

 


生活を中心にして生きるということは、
そういうことでもある。
愛もしあわせもレベルが低くなってしまう。

 

 


つらい思いを抱えてきた人に、
その程度の愛やしあわせで満足しろ、
という価値観の他者は、敵でしかない。

 

 


私もXも、ここ十年ほどの苦労で、
すっかり愛としあわせに飢えてしまった。
もっとレベルの高い愛としあわせがないと、
とてもじゃないがやってられない。

 

 


その点で、私の両親との関係に、
限界を迎えているのだ。

 

 


私とXの違いは、
そんな両親との間に境界線が
引けているかどうかだ。

 

 


私は両親に期待していない。
Xは、これだけ愛より生活という価値観を押し付けられても、
まだ、生活より愛という価値観で挑んでしまう。

 

 

 

だから、私はいう。
挑むな。
近い価値観の人とだけ、
親密になりなさい、と。

 

 

 

この変化の激しい令和の日本で、
まだ生活を中心にしたい人は、
我々と価値観の違う存在なのだ。
これはいわゆる二極化なのだ。

 

 


Xにしてみれば、
愛が中心でなければ、
なんのために生活するのかわからないという。

 

 


生活が中心的基準という人がいるのが、
本当に認識できないようだ。

 

 


やはり、
桁違いに純粋な人だと言わざるを得ない。

 

 


それはわかっている。
だから私も、Xに対して、
認識できないレベルの人に、
毎回ショックを受けることは、
仕方ないと伝えた。

 

 

 


では、どうすればいいのか。

 

 

 

まずは誰にでもやってしまう実際の行動を、
変えることだ。

 


Xの場合は、
誰にでも、
眼施和顔施言辞施をしてしまうことだ。

 

 


ひとつひとつを説明する。
これらは、仏教における、
無財の七施とよばれるうちの3つの施しだ。

 

 

 

眼施は、良い眼差しを向けること。
和顔施は、和やかな笑みを向けること。
言辞施は、温かく喋ること。

 

 

 

いずれも人と接するときに、
心がけたいことだ。

 

 

 

愛が中心的基準のXにしてみれば、
これをしないことはあり得ない。
だが、私の両親は、
Xからこれらの施しを受けても、
同様のものを返さない。

 

 

 


そこでXは、
自分がなにか悪いことしたからだ、と、
大ダメージを受けてしまう。

 

 


これでは、回復に時間を使うばかりで、
先に進めない。

 

 

 

なので、一度通じなかったら、
これらの施しを、やめていいのだ。

 


施したい気持ちを抑え、
裏切られたくない気持ちを優先する。

 


それが義両親への対処法として、
いまの自立という目的達成のために、
習得すべきことだ。

 


家の中ではそれでいい。
眼施和顔施言辞施をしたいならば、
とりあえず今は私がそれを受け取り、
Xに返す。

 


義両親にそれをやらないことを
練習することになった。

 

 


ただ、別の問題もある。

 

 

Xの場合は、
外でもやってしまう。
その時、どうやって、
施すべき相手とそうでない相手を見分けるのか、
というテーマでも話した。

 


ここで、信じるというテーマも同時に現れる。

 


Xは本当はわかっているのだ。
施すべき相手など、宝くじ並みに
なかなか当たらないと。

 


返ってくることが期待できる相手など、
Xの優れた直感で、すぐに見分けられる。

 


しかし、絶望したくないのだ。
そんなまともな人など、
この世の中で本当に数えるほどしかいない、
という現実に。

 

 

 

この話はおそらく30回以上Xに話した。
その都度、
「少なすぎるだろ!」という
Xの心底驚きのリアクションを目にする。

 

 


それにしても、
近頃は少し変わってきた。

 

 

 


自分の直感通りだということだ。
すなわち、Xは直感で、
ほとんどの他者が、
愛より生活を中心にしていることを
見抜いてしまう。

 

 

 

ただその直感を、
X本人が信じきれなかったことが、
余計な人を避けきれなかった境界線問題の、
ひとつの原因である。

 

 

 


境界線問題の答えは、
自身の直感に従い、
避けるべき相手には、
眼施和顔施言辞施すら、
制限しなければならない、ということだ。

 

 


逆に言えば、
愛で通じあえる相手が見つかったら、
その人には、
思いっきり、温かく施せばいいのだ。

 

 

 

なかなかいないのは、
悲しいことではあるが、
これからは増えていくだろう。