17.好転の兆し

2023年秋。
私は、夏から営業職のしごとを始めていた。
とあるチェーン店の店舗マネージャーだ。

 

 

 

その仕事を得るまで、かなり転々とした。
そんな中、ようやく採用されたことで張り切っていた。




ところが、担当したうちの1店舗は鉄道の高架下に有り、
独特の圧迫感となにか波動の悪さを感じていた。

 

 

 

よくあることだと思うが、人の入れ替わりが激しい。
以前オーナー店だったところではあるが、
私が担当になったときにはなぜか直営店になっていた。

 

 

 

以前の担当の記録を読む限り、
その前オーナーは気が狂ってしまったとしか思えない。
その前オーナーが放った言葉として
「会社が休みをくれないからこんな体になったんだ」とまで、
記してあった。

 

 

 

会社をかばうわけではないが、
休むための方法は用意されていた。
それが使いにくかったとしても、
体調が悪いのを自覚しているなら、
自ら休みを取得しなければならない。

 

 

 

 

仕事と体のどちらが大事か、
判断がつかない人には、オーナーは向いていなかったのではないか。
当時の私はそんなふうに考えていた。

 

 

 

そんな経緯の、
その高架下の店舗は、スタッフ不足が状態化していた。
そのため、私も店舗勤務することが多くなっていた。
圧迫感と波動の悪さ。これが人不足の原因だとさえ思っていた。
できればここで働くのは控えたいと思っていた秋のことである。

 

 

 

体調が悪い。
前日、その店舗で働いたことが良くなかったと感じた。
検査の結果、コロナに罹患していたことがわかった。

 

 

 

悪いことは重なるものである。
私の母方の祖母、父方の祖母。双方とも体調が悪くなっていたが、
ちょうど、私がコロナ療養していた間に、5日違いで相次いで亡くなった。

 

 

 

当然、葬式にもいけない。
さらにXにもコロナが感染ったようだった。
Xは病院にもいけないので、検査を受けなかったし、
市販の検査キットも使わなかった。

 

 

 

2023年でXが外出できたのは、
私がドライブに連れ出したときと、
夏から行き始めた徒歩1分未満の歯医者だけだ。
いつ呼吸が苦しくなるかわからない恐怖は、
長らくXの外出意欲を著しく制限していた。

 

 

 

そんな中、コロナにまで罹患し、
Xは絶望していた。

 

 

 

もうだめだ。
こんなところで人生終わりたくない。

 

 

 

2019年にパニックを起こし倒れて以来、
療養して、私の家に世話になるしかなかった。
ノンデリ発言連発の私の両親。
私も仕事を転々として、
適性にあっているとは思えない仕事でコロナに罹患。

 

 

 

 

このまま自らが立ち上がらなければ、
この家の人に殺される。
のちにXは正直に、そう気持ちを語ってくれた。
あとで思えば、このときのXの決意が、
事態を好転させたのだろう。

 

 

 

 

私も私で追い詰められていた。
コロナから復帰したあと、担当各店舗の問題が、
山積みになっていた。
正直、どの店舗もうまく回らないように思えた。
山盛りの携帯の履歴とメール。

 

 

 

 

非常なビジネスマンに徹して、無理にでも現場を回すのは、
どうみても私の適性にあっているとは思えなかった。

 

 

 

体が重い。
正直に、上司に仕事がつらいと打ち明け、
数日休んだ後に、退職を伝えた。

 

 

 

 

あんなに苦労して職を得たのに、
また仕事をやめてしまった。
Xに申し訳が立たない。

 

 

 

しかし、度重なる転職失敗に、
私はもはや慣れっこになっていた。
転職活動の再起動は、とても早かった。

 

 

 

失敗というのは、
重ねていくと、
ある時吹っ切れるということがあるのかもしれない。

 

 

 

急に元気に転職活動を始め、毎日丁寧に職安に顔を出した。
営業職として、ここ3ヶ月の間に数百人と会っていたので、
すっかり人に会うのが怖くなくなっていた。

 

 

 

それまでの私は、しばらく働けなかったことも有り、
自信を失っていた。そのこともあって、転職活動も、
どこか及び腰だったのだ。転職エージェントとのやりとりも、
どこか消極的になっていたことだろう。
その部分を何度Xにたしなめられただろうか。

 

 


それから1ヶ月立たないうちに、今の職場で採用となった。
職種はもともと2019年まで14年継続していたものに近い。

 

 

 

通勤時間も短く、仕事内容も難易度の高いものではなく、
人間関係もよい。
給与も希望に近い金額。
異常とも言えるほど自分にフィットしていた。

 

 

 

 

びっくりするぐらいに良い転職をすることができた。

 

 

 


コロナ罹患を契機にいろんなことがあったが、
結果として、非常に良かった。
また、この転職を成功させられたのも、
苦手な営業職に3ヶ月飛び込んで、人に慣れたからでもある。

 

 

 

あまりにも良い転職になり、
働き始めたあとも、その好転ぶりにしばらく戸惑っていたほどだった。

 

 

 

Xも驚いていた。
ここ4年間いいことなんてほとんどなかった。
お金も、健康も、人間関係も非常に厳しかった。

 

 

 

こうした私の仕事上の変化は、
Xにある考えをもたらした。
「この世の中に意味がないことなんてないのではないか」
「だとしたら、自分が苦しんできたことにも、
もしかしたら意味をもたらすことができるかもしれない」

 

 

 

 

もしかしたら、人生最大の不運の流れが、
いよいよ終わってきたのではないか。
そう思えた。

16.龍の痕跡について

Xとともに、Yの出世具合について考えていた。

 

 


やはりツインレイ男性的なトントン拍子な印象がある。
クリーンな印象も維持しており、
まるで何かに守られていると感じるところもある。
それでいて、エキセントリックな印象を与えるところも有り、
ネットで見かけるような「龍に守られている人」のような、
強烈な印象がある。

 

 

(もちろん、これらはただの印象に過ぎないのだが)

 

 

以前にも少し書いたかもしれないが、
我らがXも龍と縁がある。

 

 

 

Xには、生まれたときから、痣がある。

 

 

1センチ四方のサイズのものが、4つ。

 

 

 

いわゆる竜のうろこと呼ばれる都市伝説めいたものと、
よく似ている。
学生時代にも、友人から、
その痣どうしたの?と言われるほど、
それなりに目立つ場所にある。

 

 

 

ツインレイ女性は、
目印を体に刻み込んで生まれてくることもあるという。
この話も出典不明であり、都市伝説レベルのものだが、
なかなか不可思議なものである。

 

 

 

いつか、Yがその目印を見つけて、
Xをパートナーと認める日が来るのかもしれない。
来ないかもしれない。

 

 

 

ところで、龍の人の特徴と言っても色々ある。
特に、龍には色が有り、色によっては、
周囲を不幸にするような特徴もあるというから、
侮れない。
しかし、いずれにしても強力なエネルギーを有しており、
ドラマチックな人生を歩むことになるようだ。

 

 

 

 

龍の人の特徴というものをネットで調べる。
私に当てはまるものはないが、やはりとある色の龍は、
Xの特徴によく当てはまる。
Yに当てはまる色がどれかは、正直良くわからない。

 

 

 

Xと龍の縁は他にもある。
イラストの得意なXの知り合いの女性は、
Xへのプレゼントとして、龍のイラストを書いてくれた。
しかも、その龍の色は、先程Xの特徴に当てはまると書いた色の龍。

 

 

 

その女性はスピリチュアルな素養も有り、
Xへのイメージに合うと、判断してくれたらしい。
龍の話など、その方に何も話していないのに・・・。

 

 

 

また、Xはその女性とスピリチュアルなセッションをしたときもあったが、
その時、大きなその色の龍のビジョンを見たらしい。

 

 

 

X自身は、見たことは間違いないというが、
自分が龍に守られているとはなかなか信じなかった。

15.純粋さを持たない人々

境界線問題について、
少し長く記してしまったようだ。

 

 

だが、
他者との違いが認識しづらいツインレイ女性において
避けては通れない問題なのかもしれない。

 

 

 

とはいえ、ここで境界線問題から少し離れたい。
Xも苦しんだ、
「他者とは何か」という問題についても
記しておく必要があるだろう。

 

 

 

 

この場合の他者とは、
ツインレイ女性のような純粋さを持たない人、
という意味である。

 

 

 

人は誰しも、自分にとって当たり前のことは、
他者にも発生していると勘違いしがちである。

 

 

 

すなわち、自分のものさしで他者を判断するものさし問題である。

 

 

 

たとえば、地震が起きたら募金をするというのは、
Xにとって当たり前のことで、
まさかそれをしない人がいることが信じられない。

 

 

 

これは、自分を基準としたものさしで他人を測る「ものさし問題」である。

 

 

 

Xとの対比になるが、私の両親は、募金などしない人だった。
少なくとも募金する様子を、子供の頃から見たことがない。
家そのものに、募金という文化が存在しないようにすら思えてきた。

 

 

 

 

恥ずかしながら、私自身もXと入籍するまで、
苦しんでいる人にお金という形でエールを贈るという、
発想がなかった。
私も自分のものさしで人を測っていたと言えるだろう。

 

 

 

私の実家もXの実家も決して余裕があるわけではなかったが、
Xの家は私の家より人徳はあったので、募金する家族がいたようだ。

 

 

 

余裕のあるなしと、人徳のあるなしは、
あまり関係がない可能性があることを、
私も知ったのだ。

 

 

 

ところが、今回の能登地震では、おかしなことが起きた。
あの母が明日募金してくるからね、と鼻息荒く言い出した。
そして、翌日「1000円募金してきたから」と、
これまた鼻息荒く報告してきた。

 

 

 

???

 

 

 

やらない善よりやる偽善である。
募金そのものはいい。
額のことも、生活からすればもっと出せるだろうと思うところもあるが、
この際、気にしないようにする。

 

 

 

問題は、予告と報告を行うことである。
一体なんなんだ、褒めてほしかったのだろうか。
これではまるで、私は人非人ではないですよ、という予告と報告である。
なにかやましいところがあるのかと、
かえって疑ってしまうほどである。

 

 

 

この話をXにしたところ、金額にも、
報告にも目を丸くして仰天していた。
が、これはとても軽い事例に過ぎない。

 

 

 

Xからすれば、私の母のやることなすことが、
いつでもびっくり仰天である。

 

 

 

もう一つ例を出そう。
私の腕は、これを書いている現在ギプスの状態だ。
右手はうまく仕えないので、食事においては、
白米は、おにぎりにしてもらうことが多い。

 

 

 

 

母が作るのは、塩味もついていない、具もない、
海苔もないものなのだが、
Xからすれば、そんな扱いはひどすぎると怒っていた。

 

 

 

 

「世の中には色んな人がいるんだね」

 

 

 

昨今のXの口癖である。

 

 

 

他者の中には、私の母のような、
あまり気を使えない一般人が混じっている。

 

 

 

もちろん、私の母より問題を抱える人はいるし、
もっと善人と思える人もごまんといる。

 

 

 

これまでXは、こうした純粋さのないひとがよくわからないままやってきた。
実はこの他者の中に交じる
「あまりよくない一般人」「純粋さを持たない人々」については、
私も2021年頃から、何度もXに伝えてきた。

 

 

 

 

自分のものさしで測ってはいけない。
世の中には、信じられないほどの悪があり、
それらは陰陽である。

 

 

 

Xのような光の純粋さもあれば、
人を人とも思わない傍若無人な闇も同時に存在する。

 

 

 

Xに対し、私は、
「世の中には残念な人がいる」と説明した。

 

 


とあるXの友人は、
「Xさんは純粋なところがすごい。え、みんな?みんなもっと邪だよ」とXに伝えた。
彼女はたくさんのひとにアドバイスする仕事をしている。

 

 


Xの好きな芸能人も「褒めたい人がいない」と発言したという。

 

 

 

これらの言葉をXは噛み締めようとしたが、
いつも、多くの他者がもっと善であるかのような錯覚を、
起こしてしまいがちだった。

 

 

 

たしかに、Xのような善のひと、純粋な人も、
きっとこの世の何処かにいるだろう。
だが、それらはあくまで、ケタ違いの少数派だ、
ということを私やサポートする側が忘れてはならない。

 

 

 

大多数は、Xとちがう物の考え方をする。
もっと言えば、同じ考え方同士の人間など、この世には存在しない。
それはたとえ、ツインレイでもそうだろう。

 

 

 

近頃のXは、2021年からの学習の効果もあり、
そうした他者のなかに一部いる「あまりよくない存在」をようやく、
少しづつではあるが、認識し始めているようだった。

 

 

 

これを学ぶと何がいいのかといえば、
以下のような事例を防ぐことができる。

 

  • 残念な人の残念な行動を見る
  • そんな悪いことをする人がいるはずないと考える
  • だから自分がなにか悪いことをしたから、攻撃されたと考える
  • 以上の誤解から、世界が全て敵になって孤立する

 

この「そんな悪いことをする人がいるはずないと考える」部分を、
現実を認識してもらうことで、変えようと私は考えたのだ。

 

 

まる3年ほどかかったが、ようやく光明が見えてきた。
度重なる私の両親のノンデリ行動により、
Xは自分に関係のないところでも、
良くないことを普通にしている人がいることを、
理解し始めたのだ。

 

 

 

人は人の間に生きるから、人間なのだ。
傍若無人に生きれば、それはヒト属という動物に過ぎない。

 

 

 

人間のように見えても、動物のように生きていたり、
あるいは動物よりも低い社会性の生き方しかできないヒトもいる。
そのことがXを大きく落胆させることはわかっている。

 

 

 

それでも、Xはその現実を受け入れなければならない。

 

 

 

「世の中にはいろんな人がいる」

 

 

 

逆に言えば、闇もあれば光もあるのだ。
Xの相手と思しきYが、
光あふれる人間として、
Xの前に現れてくれるであろう未来を、
私は予祝している。

14.境界線問題に今挑む理由

境界線問題について、
もうひとつ話し合ったので、
付け加えておこうと思う。

 

 


それは、
いま境界線問題を学ぶことで、
将来どんなことに役立つのか、
ということだ。

 

 


世界はどんどんアップデートされてきている。
強く優しく面白い、愛を中心的基準にして、
自他を大切にして生きられる人が増えていく。

 

 


そうなりつつあることを、
私もXも、肌感覚で、わかってきている。

 

 


そうなれば、
もう境界線を引く能力など、
不要ではないのか、と、
Xは考えたらしい。

 

 

 

だから、
いま境界線問題を実習することに、
疑問が湧くという。

 

 


なるほど。

 

 

 

 

それに対しては、
正直わからないところもあるが、
おそらくY対策ではないだろうか。

 

 


ツインレイ男性は、
現実主義で、物質主義なところがあると聞く。

 

 

 


そんな相手に境界線が引けないまま、
つまり距離感バグってるままだと、
ランナーとチェイサーになり、
サイレントになってしまうからではないか。

 

 


おそらく有名人ツインレイは、
やることが多く、
サイレントを長々と続けるわけにもいかない。

 

 


だから、
今のうちに境界線問題の処理を、
ツインフレームのもとでさせられている。

 

 

 

そんな仮説を立てている。

 

 

しかし、それはあくまで仮説。
本当のところはわからないが。

 

 

 

それでも、
こうした仮説を考えていくのは、
比較的楽しい。

 

 

13.境界線問題のつづき

境界線問題もまた、
Xにとっての「信じる」というテーマに
繫がっていた。

 

 

 

これは、同じく境界線問題に悩む、
ツインレイ女性や、それに準じる純粋な方に、
対処法を示唆する話になると思う。

 

 

 

どうしたらいいのかと悩むXに、
私は、伝えていく。

 

 


まず、私の両親の残念さは、
今後も変わらない。
Xのように、
愛を中心的基準にして生を受けたわけではないからだ。

 

 


少なくとも息子の私からはそう見えている。
長年かけて両親を観察した結果である。
他の誰にも異論を挟ませる余地はない。

 

 


ならば、何が私の両親の中心的基準かといえば、
「生活」である。

 

 


たしかにそれも1つの大切な基準ではある。
ただ、生活を中心にして、
愛を脇に置いてしまうのならば、
そこに起きる、
人としての優しさのレベル低下は、
免れようもない。

 

 


幸せという漢字が、私は嫌いだ。
書くときはひらがなか、
英語でハッピーにしている。

 

 


なぜならば、この漢字は、
この程度で済んでしあわせだね、という意味の、
手を鎖に繋がれた形から成り立っているからだ。

 

 


生活を中心にして生きるということは、
そういうことでもある。
愛もしあわせもレベルが低くなってしまう。

 

 


つらい思いを抱えてきた人に、
その程度の愛やしあわせで満足しろ、
という価値観の他者は、敵でしかない。

 

 


私もXも、ここ十年ほどの苦労で、
すっかり愛としあわせに飢えてしまった。
もっとレベルの高い愛としあわせがないと、
とてもじゃないがやってられない。

 

 


その点で、私の両親との関係に、
限界を迎えているのだ。

 

 


私とXの違いは、
そんな両親との間に境界線が
引けているかどうかだ。

 

 


私は両親に期待していない。
Xは、これだけ愛より生活という価値観を押し付けられても、
まだ、生活より愛という価値観で挑んでしまう。

 

 

 

だから、私はいう。
挑むな。
近い価値観の人とだけ、
親密になりなさい、と。

 

 

 

この変化の激しい令和の日本で、
まだ生活を中心にしたい人は、
我々と価値観の違う存在なのだ。
これはいわゆる二極化なのだ。

 

 


Xにしてみれば、
愛が中心でなければ、
なんのために生活するのかわからないという。

 

 


生活が中心的基準という人がいるのが、
本当に認識できないようだ。

 

 


やはり、
桁違いに純粋な人だと言わざるを得ない。

 

 


それはわかっている。
だから私も、Xに対して、
認識できないレベルの人に、
毎回ショックを受けることは、
仕方ないと伝えた。

 

 

 


では、どうすればいいのか。

 

 

 

まずは誰にでもやってしまう実際の行動を、
変えることだ。

 


Xの場合は、
誰にでも、
眼施和顔施言辞施をしてしまうことだ。

 

 


ひとつひとつを説明する。
これらは、仏教における、
無財の七施とよばれるうちの3つの施しだ。

 

 

 

眼施は、良い眼差しを向けること。
和顔施は、和やかな笑みを向けること。
言辞施は、温かく喋ること。

 

 

 

いずれも人と接するときに、
心がけたいことだ。

 

 

 

愛が中心的基準のXにしてみれば、
これをしないことはあり得ない。
だが、私の両親は、
Xからこれらの施しを受けても、
同様のものを返さない。

 

 

 


そこでXは、
自分がなにか悪いことしたからだ、と、
大ダメージを受けてしまう。

 

 


これでは、回復に時間を使うばかりで、
先に進めない。

 

 

 

なので、一度通じなかったら、
これらの施しを、やめていいのだ。

 


施したい気持ちを抑え、
裏切られたくない気持ちを優先する。

 


それが義両親への対処法として、
いまの自立という目的達成のために、
習得すべきことだ。

 


家の中ではそれでいい。
眼施和顔施言辞施をしたいならば、
とりあえず今は私がそれを受け取り、
Xに返す。

 


義両親にそれをやらないことを
練習することになった。

 

 


ただ、別の問題もある。

 

 

Xの場合は、
外でもやってしまう。
その時、どうやって、
施すべき相手とそうでない相手を見分けるのか、
というテーマでも話した。

 


ここで、信じるというテーマも同時に現れる。

 


Xは本当はわかっているのだ。
施すべき相手など、宝くじ並みに
なかなか当たらないと。

 


返ってくることが期待できる相手など、
Xの優れた直感で、すぐに見分けられる。

 


しかし、絶望したくないのだ。
そんなまともな人など、
この世の中で本当に数えるほどしかいない、
という現実に。

 

 

 

この話はおそらく30回以上Xに話した。
その都度、
「少なすぎるだろ!」という
Xの心底驚きのリアクションを目にする。

 

 


それにしても、
近頃は少し変わってきた。

 

 

 


自分の直感通りだということだ。
すなわち、Xは直感で、
ほとんどの他者が、
愛より生活を中心にしていることを
見抜いてしまう。

 

 

 

ただその直感を、
X本人が信じきれなかったことが、
余計な人を避けきれなかった境界線問題の、
ひとつの原因である。

 

 

 


境界線問題の答えは、
自身の直感に従い、
避けるべき相手には、
眼施和顔施言辞施すら、
制限しなければならない、ということだ。

 

 


逆に言えば、
愛で通じあえる相手が見つかったら、
その人には、
思いっきり、温かく施せばいいのだ。

 

 

 

なかなかいないのは、
悲しいことではあるが、
これからは増えていくだろう。

12.境界線問題

退院してから、
色々と話し合った。

 

 


その中で最も重要なテーマは、
私の両親と何とか仲良くしようとするのをやめるということだった。

 

 


私の入院中、
Xと私の両親だけの
生活となっていた。

 

 


ツインレイじゃなくとも、
義理の両親との同居は、
厳しい。

 

 

 

しかもXはなぜか、
自分の接し方次第で、
誰とでも仲良くなれるという
妙な勘違いがあった。

 

 

 

この勘違いは、純粋な特徴を持つと言われる、
ツインレイ女性ではあるあるのようだ。
いわゆる距離感バグってる、となりがちらしい。

 

 

 

しかし、
何度それを私の両親に試しても
うまくいかなかった。

 

 


私の両親は、
弱く自分勝手なのである。

 

 

 

Xがいくら温かく接しようとも、
つけあがるだけで、
Xに同じように温かさを返すことができない。

 

 

 

そのたびに、Xは、
「自分がなにか悪かったんだ!」と、
大変なショックを受け、
体調不良になり、回復に数日を要する、
ということを繰り返していた。

 

 

 

私の骨折を契機に、
自立心が高まったX。

 

 

 

毎度毎度、義両親との関係で、
体調回復に時間を使っているわけにはいかない。

 

 

 

ここで自立が遅れると、Z(私)が今度こそ、
骨折では済まない命の危険すらあるのではと、
心底恐れていた。

 

 

 

私の両親は、
Xほど温かさに価値を見出していない。
Xにしてみれば、
自分と同じくらい温かさに価値を
見出しているのが当たり前で、
そうじゃない人など存在しないのでは、
という思い込みがあるのだ。

 

 

 

だから、試さなければいいものの、
試さないという選択肢は取れない。
それは生まれながらに持ってきた性質のように、Xの中に染み込んでおり、
常時発動し、自制が効かない。

 

 

 

いわゆる境界線問題である。

 

 

いまにして思えば、
Xに境界線を引く練習をさせるために、
はからずもうちの両親は貢献していた。

 


その課題が、入院中、
また浮上してきたのだ。

 

 

(つづく)

11.運命の日

※執筆日と投稿日にはズレがあります。

 

 

昨日、骨折した。

 

 

人生初の骨折である。
いま、右手は三角巾で吊られ、
指と肩周りは動くものの、
肘は固定され動かない。

 

 

痛みは、ロキソニンの効果もあり、
それほどないが、
折ったときの痛みは、
本当に驚くほどだった。

 

 

今でも折ってしまった現実が
嘘のように感じる。

 

 

 

車の中の忘れ物を取りに行こうとした。
50センチぐらいのブロック塀を超えると近道だ。

 

 


まさかそこで足を踏み外すとは。

 

 

 


動けない。
右肘から先が痛みと痺れで、
まったく動かせる気がしない。

 

 

 

前のめりに降下していくとき、
視界がゆっくりになった。
ぼきりという音がした。
とっさについた右手があらぬ方向へ歪んでいくのを見た。

 

 

 

小雨が、仰向けに倒れた頬に当たる。
痛みがすさまじい。
右手はどうなっているのか。
あまりにも見たくない気持ちと、
現状を把握せねばという生命力がせめぎ合う。

 

 


すぐに動く方の左手を動かし、
ポケットからスマホを出した。

 

 

 

利き手じゃないからもどかしい。
Xに電話する。

 

 

 

転んで腕が折れた。
救急車をよんで欲しい。

 

 

Xの悲鳴に近い声が聞こえる。

 

 

 

痛みは強くなるばかり。
すぐにXと私の両親がやってきた。
それから救急隊員がきて、
腕が動かせない中で、どうやって救急車に乗せるか話していた。

 

 


ようやく首を恐る恐る右へ向けた。

 

 

 


なんだこれは。
右肘の先にもうひとつの関節が増えてる。


たぶん、真っ青になっていたと思う。


ひとりが腕を、
あとの二人が脇の下と膝の下を支え、
ストレッチャーに乗せてくれた。

 

 

救急車がゆれるたび、激痛が走る。
幸い、近隣のリハビリに強い病院が受け入れてくれた。

 

 

 

病院ではいろいろな質問に答えたと思う。
持病はない。1年以内の身体的トラブルも。
コロナワクチンは未接種だと告げたが特段嫌な顔もされなかった。
救急車のなかでも同じ質問に答えた気がする。

 

 

 

名前の入った紙を手首にまかれたり、
肘のレントゲン撮影のあと、
先生がやってきた。

 

 

 

曲がっている腕を持ち上げた。
えっ、何するの、やめて。
ボキボキボキボキ!
いたたた!!!

 

 


ガチャンとハマった音がした。
増えた関節が減った。
無事、右手を腹の上におけるようになった。
痛みもまだかなりあるが、
大幅に減った。
助かった。

 


痛み止めの点滴。
針をさす血管がさしにくいものだったらしく、
先輩スタッフ的な人が交代して、
やっと入れられた。
後の手術のことも考え、
入れにくいサイズの器具を
使わなければならなかったことも
原因のようだった。

 

 


次はCT検査。
息を吸って止めてを4回ほどやっただろうか。

 

 


その後両親とともに説明を受けた。
脱臼骨折、靭帯断裂の大ケガです、と。
レントゲン写真には関節増えてたときの骨。

 

 


なるほど脱臼はこれか。
CT検査写真には、
なんとか骨という小さめの骨が
無数に砕けた様子が写っていた。

 

 

 


手術です。
ボルトを入れて固定します。
特殊な機械を取り寄せるので、
すぐには手術できなくて、火曜日になります。
◯◯という先生です。
7日から10日ほど入院です。
その後リハビリです。
全治3ヶ月。
車の運転は2ヶ月ぐらいは難しいでしょう。

 

 

 


手術のあとは、
仕事の内容にもよるが、
パソコン作業なら、
退院後すぐに復帰できそうだった。

 


採尿も片手にしてはうまくとれた。
小水をまきちらさないか不安だったが、
フンとふんばって、
尿を中断させ
コップを無事に取り出せたのだから、
自分で自分を褒めたい。

 

 


母が入院手術関係の書類10枚ほどを
書いてくれた。
父がペットボトルの水を買ってきてくれたが、
動揺のためか、
開けられない息子に気が付かない様子だ。

 

 

なんとか痛む右手でボトルをおさえ、
左手でねじって開けた。少し自信になった。

 

 

 

父から落としていた眼鏡を受け取り、
かけると視界が良くなったことで、
また少し自信を回復したと同時に、
視界が原因で不安になっていたことに気がついた。

 

 

 

整形外科の入院病棟に空きがなく、
泌尿器の方へ。
六人部屋に自分含めて4人がいた。

 

 


談話室があり、そこでXに電話する。
現状を報告した。
病院名を聞かれて、天丼屋の近くと伝えたら、
分かったようだった。

 

 

 


Xは今回のことで、ますます自立しなければ、
と感じたようだ。
この手のことが起こると焦って本質を見失いがちなので、
念の為釘をさしたが、
2年前の入院のときとは違う。
なんだか、今回は大丈夫な気がした。

 

 


入院食の夕食はおにぎりと煮魚。
サラダも左手で
フォークを使い食べられた。
ぅまい。

 

 

2年前のK病院とはぜんぜんちがう。
まずおにぎりの米がもちもち。
ボソボソとして味気なかった白米もどきのあの病院への恨みは忘れない。

 

 


それに担当スタッフさんの笑顔が癒やされる。
夕食時には交代でもう帰られてしまったが、
自分のベッドに担当として記されてる名前が
その人だったから、
これは当たりだと感じる。

 

 

 

だが、そんなことはどうでもいい。
この日起こったことのうち、
最も重要なのはこのあとおきた。

 


Xとのラインのやり取りだ。

 


母が入院書類を書いているときに、
私は、ボソリと、
Xが気にしすぎていないかが1番心配と漏らしてしまっていた。

 


それを両親は汲み取ろうとしてくれたようだった。
Xから聞いたところによると、
父はXに対し、
気に病んでも仕方ないというようなことを
慰めのつもりで言ったらしい。
しかし、Xはそれが気に障ったらしく、
今はそんなに気に病んでませんと
強く言い返したらしい。

 

 

また、優しく声をかけてくれた母に、
また遠慮せず下に降りてきてと言われたようで、
それにも、
父に言い返してしまいそうになるから、
行けないと断れたらしい。

 

 

 

母はその時、父も動揺していると
説明したらしい。
それは正しい説明だと思う。

 

 

 

Xとしてはエンパスがあり、
本当は、母にもダメージを受ける
というのもあるのだが、
そこは敢えて言わずにおくことができたらしい。

 

 


Xの本心としては、
なぜ間に入ってくれないのかと
私に対して怒りがある。

 

 

 

そのことについて、
ラインのやり取りが続いた。

 

 


親に対しては、
私も確かに至らないところがある。
Xの特殊さを伝えない限り、
真の意味で間に入ったことにならない。
だが、Xの特殊さを伝えるということは、
働けず同居になっているXへの、
風当たりをかえって強める。

 

 

 

つまり、敏感さを精神論で直せという、
X本人が自分を追い詰めるのに使ってしまっている悪い論理を、
私の親にも使わせてしまう。

 

 


追い詰められるのは結局Xだ。

 

 

 

言い訳かもしれない。
親にもXのエンパスなど、
見えない世界を、噛み砕いて、
粘り強く伝えなければいけなかったのかもしれない。

 

 

 

このジレンマが壁になっている。
そこまでやらなかったら、間に入ったことにならない。

 

 

 


だが、私は悩んでいた。
うちの両親は3次元的価値観にまみれている。
本当はXと同居させていいような人ではない。
テレビを見て、かわいそうといいながら、災害支援の募金をしぶる。
平気で「生活保護のくせに」と、誰かを罵ることさえある母。

 

 

 

こういう人は現状変更を恐れる。
なにかがおきたとき、まず他人を変えようとする。
つまり、Xにも精神的なふんばりだけではどうにもならなくても、
それを強要する。

 

 

 

私はそれが怖い。
Xが自分を責める材料を他人に増やされるのは我慢ならない。

 

 


でも、Xはラインしてきた。

 

 

「大きなところから考えれば(間に入ることは)できる」と。

 

 

つまり、大目的があれば、
親との関係にも道は開かれると。


その大きなところを私は以下のように説明した。

 

 

大きなところとして、
弱者の現実をXに観てもらうことのほうが、
意味があるような気がしている。
どうにもならない他人のことではなく、
どうにかできるX自身のことに
気がついてもらう意味がある。
そのための悪い見本なのではないかと感じている。

ツインフレームにもできないことがある。
本当に期待すべき人は別にいるので、
そこに向かう必要があると。

 

 

ここにも、何らかの反論があるのではと、
思っていたが、
Xからはなるほどね、と返ってきた。


まだツインフレームに、
成長変化して助けてもらおうというのは、
また今回(骨折)のようなことを引き起こすだけだ、
と感じているのだろう。

 

 


もうツインフレームに甘えられない。
今回のことでそれをかなり厳しく自覚したようだ。

 

 

 

うちの両親にダメージを受けるのは、
Xがエンパスである以上避けられない。

 

 

 


なんとかしたいのなら、
自己不信に終止符を打ち、
ここまで頑張ってもまだまだの私や、
私の両親のような未成熟な魂を置き去りにしてでも、
Xが自らの求めるものを求めることである。

 

 


それは今までのような
見つけた短所をしらみつぶしに
矯正するような自罰的なものとは、
明らかに違う。

 

 


成熟したYとのツインレイ的充足こそが、
すべての「大きなところ」である。

 

 

 

そのために、
未熟な仲間にはもう甘えないと、
ほんとうの完熟果実の幸福を求める勇気こそが、
いまXに試されていると、
感じている。

 

 

実は、
車の中にあって
取りに行こうとしたものはXの水筒である。

 

 


前日のドライブで、
車中に忘れたものだ。

 

 

 

それを今日のドライブでも使いたいと言われ、
取りに行こうとした矢先の骨折である。

 

 

 

少なくとも外に出る助けをするのは
もう違うのだと天に言われている気がする。

 

 

 

実際、しばらく運転できない。
つらいとは思うが、
Xはもうひとりで家の外に出るべきなのだ。

 

 

 


実際、徒歩数秒の歯医者には、
一人で行けているのだ。

 

 

 

補助輪を外す。

 

 

そんな言葉が思い浮かんだ。


冥王星水瓶座に入ったらしい。
いよいよ、時代がかわる。


あと少し。
ツインフレームとして、ラストスパート。
そう感じている。