02.ツインレイ概念との出会い

私自身、
ツインレイなる概念を見かけるようになったとき、
痛烈に以下のように思っていた。

 

「うわ、またニューエイジ文脈のスピリチュアルカルトが、新たな飯の種を見つけ出しやがりましたよ!!かーっ、ぺっ!」

 

と、批判の対象にしていた。

 

ニューエイジ文脈のスピリチュアルカルト」なるワードが、
理解できない方も多くいると思う。

 

が、簡単に言えば、
ようはその直前までフィーチャーされていた、
「子宮系カルト」と同一視していたのだ。
(私は、詐欺が大嫌いだ)

 

 

 

(そして、実際、子宮系と入れ替わるようにしてツインレイカルトはごく少数現れたと見ている)

 

 

だから「どうも自分自身ツインレイ女性っぽいんだが」と、
大のカルト嫌いのXが言い出した(というより心配しだした)とき、
珍しいこともあるものだと思ったものだった。

 

そんなXから話を聞くうちに、
Xがツインレイ女性かどうかはさておき、
もしかしたら、私自身がちゃんと知りもしないうちに
ツインレイをカルトの飯の種と決めつけていたのではないかと思った。

 

 

現状把握が不足したまま、何かを判断することは危険なことだと、
品質管理の仕事で学んだのではなかったか。
Xがツインレイ女性かどうかを判断するのはそれからでも遅くはない。

 

そう思い、「少し調べてみるか」と、
重い腰を上げたときも、
まだ風説に過ぎないと疑っていたのだ。

 

 


そしてツインレイについて文献を残したという
リサ・スミスの原典の日本語訳を読んでも、まだ疑っていた。
なにしろ、原典自体はかなり古いものであるにも関わらず、
子宮系と入れ替わるようにして出てきたものだから、
ニューエイジムーブメントにかぶれた残念な人達が、
利用できるものは何でも利用しようと目論んだ、
のではないかと考えられたためだ。
なので疑いを抱きながらも知識としてストックするぐらいのつもりで目を通した。
しかしながら、そこに出てきたツインフレームという言葉だけは、
妙に私の心に残ったのを記憶している。

 

この時点で2019年だったと思う。

 

そしてその年の夏。

 

Xはパニック障害を起こし、
以後今に至るまで、
ほとんど家から出られない日々を送っている。

 

 

2019年、2020年あたりがXにとって最も厳しく、
今にも呼吸が止まるかもしれないという恐怖に取り憑かれ、
立ち止まったら今にも死ぬと感じていたと語っている。

 

居ても立っても居られない恐怖で、
夜通し、部屋の中と外をフラフラになりながら行ったり来たり。
歩き疲れて心身ともにボロボロになって、
倒れるように眠るまで、歩き続けたことも一夜二夜ではなかった。

 

Xの母が、その様子を見にきたときの、
ただただ歩き続ける娘を見たショックの表情を、
私は今も忘れられない。
もちろん、私自身もショックだった。

 

それでもこの苦難の日々を切り抜けられたのは、

(それにしたって、その苦難は今も完全に終わったわけではない)


X本人いわく、ひとえに希望にしがみついていたからだという。

 

 

 

その希望というのが、
(誰かに)選ばれなければいけない」
という相手もわからないファンタジーめいたものだった。

 

 

いったいXは誰に選ばれなければならなかったのか?

 


X本人ですら、誰に選ばれようというのか、
わかっていなかったようだった。
が、今ならばわかる。

 

これがおそらく
ツインレイ男性と思しき人物(Y)だったのだろう。

 

 

ここで断っておかねばならない。
確かに私とXは籍を入れ、お互いを大切に思っている特別な関係だが、
Xにとって私以上の存在がいようといっかな気にならない。マジで。

 

 

 

籍を入れていることにも違和感を覚えるほどなのだが、
この感覚を他者に伝えたところで、理解しがたいことはわかっている。
実際にツインフレーム的役割を経験したものにしか理解できないだろう。

 

強いて言えば、腐れ縁の恋愛経験をした人は、
少し近い感覚をお持ちかもしれない。

 

愛憎入り交じる感覚と似ている部分もあるものの、
ようは「単一の恋心」や「執着心」みたいなものではない。
離れたいと思うことも少ないが、一緒に添い遂げたいともならない。
あくまで魂の成長という目的のために、相容れない部分も残したまま、
同じお遍路を巡っている、という感じが近いだろうか。

 

 

希望の件に話を戻すと、
一般的にツインレイ女性は死の匂いがする体験を重ねているものらしい。
しかしながら、それを耐え忍び生きられるのは、
彼女たちにとって「無意識の出会いの予感」が
大きな支えになるからではと、私は考えている。

 

 

ヴィクトール・フランクルの夜と霧とは違うかもしれないが、
論理的でなかったにしても、なにかひとつ本気で縋れるものがあれば、
その地獄の終わりまで生きながらえる人がいるということか。

 

いや、むしろ、論理的でなく、根拠がない希望だからこそ、
否定しようがなく、希望を抱き続けられるのかもしれない。
無意識とはそれほど強いのだろう。

 

 

逆に言えば、
希望を失えば、死んでいたのかもしれないと思うと、
ツインレイ女性として生きることを選んだ魂であるXについて、
言葉通りの命知らずと思えてしまい、ぞっとする。

 

 

会わなきゃいけない誰かがいる気がする。

 

 

そんな証拠もないような直感的思い1つで、
あの困難を耐え抜いてしまえるのだから、まったく恐ろしい人だと思う。


いっぽうでX自身は、そんな死の匂いのことよりも、
自らが、ツインレイ女性っぽいと考えたとき、
まっさきに思ったことがあったという。

 

「自分自身がつらかった人生を肯定したくて、ツインレイを人生を肯定するための材料にしたいだけで、ただの思いこみで、本当は違ったとき、どうしよう」

 

ツインレイ女性であるという現実に縋りたくても
そんなものに縋ってはいけないという、ジレンマを抱えていた。

 

これは、カルトにひどい目に合わされてきたXが抱える
カルトに当てはまりそうな要素すべてを否定する性質によると
私は考えている。

 

そんなXに追い打ちをかけるように、
次々と「いい加減、信じろよ」と言わんばかりのシンクロニシティが連続して現れた。

 

・相手と思われる(Y)との共通点の数々。

・Yとあまりにも似通った、かつての恋人(W)の偽ツイン的行動。

・そしてツインレイ女性を助けるために現れるというツインフレーム的振る舞いの私(Z)。

 

ツインレイかもしれないことを忘れようとするXに、
まるで運命の女神がそれを忘れてはいけないと
奇跡の連続によってしめし続けるかのようであった。